【Vol.1】”世界平和”を目指すバーの正体
【変幻自在】思うままに姿を変えて、現れ消えること。ー新明解四字熟語辞典(三省堂)
大門の路地を「本当にここで良いのかなあ」と少し不安になりながら進む。すると、突き当たりにずっしりと構えた1軒のバー「変幻自在」が現れる。
世界各国のお酒がずらりと並ぶカウンターには、800回以上来店している常連さんから、芸術家やお笑い芸人、海外からの旅行者なのに「常連」という謎の存在まで、良い意味で定まらない面々が集う。
カウンターの奥で、お客さんが紡ぐ物語を、味わうかのように切り盛りするのは、経営者の湯川史樹(ゆかわ・ふみき)さん(42)だ。磁石のように人を引き寄せてしまう史樹さんの魅力と、変幻自在が目指す世界観を、2回にわたってお届けする。
海外三昧の青春時代
ー実は史樹さんの昔のことを全然知らないので、どんな人生を経て今に至るのか、教えていただけますか?
実は4歳〜9歳はニューヨークに住んでいたよ。そう言うとみんなマンハッタンの大都会を連想するんだけど、俺がいたのはニューヨークの田舎。川で釣りをしたり、野生のリンゴを取って食べたりして育った。
日本に戻ってからは桐朋中学・高校のサッカー部で主将をしていたよ。1994年のインターハイは出場できたんだけど、1回戦で9-0のぼろ負けで。
本当に真剣に打ち込んでいただけあって、本当に悔しかったのを今も覚えている。とにかく高校はサッカーばっかりの日々だったね。
ーーサッカー青年の一面は知りませんでした!プロを目指したりはしなかったんですか?
プロは考えていなかったな。自分には天性の運動神経や身体能力は無いということは、周りにすごい人たちがいたからなんとなく分かっていたし。それで大学は経済学部へ。
大学時代は、アメリカで育った記憶や、姉がのちに国連で働き始めるような国際派だった影響もあって、とにかく海外に出たい!という気持ちが強かった。
国際関係会っていう異文化交流系のサークルの代表をやっていて、奨学金制度を使ってアメリカのメイン州に1年留学したり、お金を貯めてはバックパッカーとして旅行したりしていたよ。今まで行った国は65カ国!
それと合わせて語学も勉強して、今では日本語と英語とスペイン語は仕事レベル、フランス語とイタリア語は日常会話レベルまでは話せるようになりました。
ーー5ヶ国語はすごすぎる…(遠い目)
メキシコ駐在でVAIO立ち上げ
ーー卒業後は何の仕事に?
新卒でソニーの海外営業部として採用してもらえて。製品に興味があったというよりは、4年以内に海外に行かせてもらえるという確約があったことが理由。実際にソニーに入社して2年後にメキシコで働けることになって、そこでパソコンのVAIO事業の立ち上げをやっていたよ。
2001年当時は、日本やアメリカではすでにノートパソコンが広まっていたんだけど、メキシコはまだまだデスクトップが主流で。治安が今よりさらに悪かったから、格好の盗難ターゲットだったのがその主な理由で、パソコンも檻みたいなケースにいれらた状態で売られていたんだよね。
でもそれじゃあ良さが分かってもらえないし、売れないだろうと考えて、「こんな編集できるんだ!」とか「カメラの写真がこんな風に取り込めるんだ!」とか、とにかく実際に触ってもらえるように工夫して売ったの。
パソコンを置く棚から自分たちで考えて、セキュリティーを施したり、プロモーション専用の人を雇って自ら教育したりね。
それが奏功して売り上げはかなり伸びた。休日のお店周りも楽しくて、全然苦じゃなくやってたなあ。
ーーまさにマーケティングの勝利ですね!仕事以外は、メキシコ時代はどんな風に過ごしていたんですか?
実はバーを経営する最初のきっかけはメキシコ時代だったんだよね。当時現地の社長の誘拐疑惑があって、日本人社員も安全を最優先しようということで、2ヶ月くらいホテルに缶詰状態だったの。
その時に一歩も外に出られないから、まあホテルのバーでお酒を飲もうってなるよね(笑)。そこで一流のお酒を飲み比べることができて、メキシコ人バーテンダーに「ラムってのはね…ウォッカっていうのはね…」といろいろ教えてもらったことがきっかけで、お酒の世界にハマって行った感じかな。
アイディアを現実の形にしたい
ーーそんな刺激的な社会人生活を、どうして辞めてしまったのですか?
ソニーには日本での勤務も含めて計8年務めたけど、あまり未練はなく辞められた。ソニーでは学ばせてもらったことが多くて本当に感謝しているんだけど、ソニーではなく会社員という労働形態が自分に合っていないと感じたことが理由かな。
メキシコ駐在中から、小説を書いたり曲を作ったりしていて、自分は「アイディアを現実の形にすることが好きなんだ」ということに気付き始めていたの。
そうすると同じ人と、同じ景色、同じ温度の中で仕事をすると、どうしても新しいアイディアって出て来づらくなると思うようになった。
今でも会社で働くならまたソニーで…って思うほど愛着はあるけど、どうしても会社員にはとどまれなかった。それで退社した後は、自分の会社「株式会社愛」を立ち上げました。
ーー周りからはいろいろ言われなかったんですか?
言われたよ!「血迷うなよ」ってね。でもど素人がいきなり会社経営やるって言い出すんだから、そう言われても当たり前だよね(笑)。
株式会社愛は「相互理解の精神を広めることで、世界平和に貢献したい」という思いで始めた。そしてそれをビジネスとアートを絡めて実現するんだ!とね(この辺りはVol.2で詳しく紹介します)。
でも具体的にどんな事業をするかは実は全然決めてなくて、会社の名刺だけ作って、80日間の旅に出たの。
ーーえ?!
ヨーロッパから中東に抜けて、韓国に寄って帰ってくる、というルートだったかな。旅先で会社の名刺をいろいろな人に見せたら、後々の事業につながるんじゃないかなと。
あとはお酒の輸入販売をやりたいという気持ちはあって、お酒の生産現場を見たり、お酒を作っている人と知り合ったりしたいという目的はあった。行ったのは例えばトルコやスロバキアのワイナリー、スコットランドのウイスキーの蒸留所、スペインのシェリー酒の蔵など。
ーートルコのワイナリー、興味深い!
トルコは地ブドウがたくさんあるから、日本じゃ作れない味があって面白いよ!それで、帰国してすぐに、世界遺産展っていう個展を開いたの。自分が旅先で撮った写真と描いた絵を展示して、ワインは何と2000円で飲み放題!朝から夜までいて、ワイン飲んでいるおじさんもいたなあ。
今思うとあの経験がバー経営の原型かな。友達や知り合いが集まって来て、ワイワイお酒飲んでいるのを眺めている景色。
ワンルームの自宅でビストロ開業
帰国してからの1年間は、映像翻訳やらワイン会やらで食いつないでいた。あとは、我流の料理の腕試しをしたくて、品川のワンルームの自宅で「レストランもどき」を始めたの!その名も、Bistro史樹。
前菜からデザートまでのフルコースとワイン付きで5,000円。でもそれ原価なんです、みたいな。もちろん来てくれるのは知り合いばかりなんだけど、結構来てくれて、手ごたえはあったんだよね。
お金をかけず実験的に、自分の料理の実力を試せた感じ。「いざとなったらこんな感じで食っていけるかな〜」っていうぼんやりした自信は得られた。
ーーまずできることから、ですね!料理のレシピはどうやって開発するのですか?
うーん、全部自分の感覚だなあ。そもそも料理本のレシピ見て作るのが、1番非効率だなと俺は思っていて。
ーーん?料理本は効率良く料理したい人向けだと思うんですが…。
いや、でも何か食材が足りないと作れない、とか食材が余っちゃうとか、面倒じゃん。今ある食材を最大限活用して、最高に美味しいものを作るって考えたときに、レシピは効率が悪いと思う。
もちろん三ツ星レストランのシェフの料理は尊敬するけれど、あれはどちらかと言うとアートの領域。毎日提供できる美味しいものを作る方法を考え続けた結果、テレビの料理番組を見る、でも絶対にレシピは覚えない、ということを実行している(笑)。
レシピは覚えないんだけど、「あ〜このタイミングでごま油ね」とか、「こうしたかったら片栗粉入れるのね」みたいな、曖昧な知識だけ頭に蓄積していくの。
アイディアの引き出しだけ大量に持っておいて、創作する段階になったら一気に引き出しを開けて、「あの引き出しに入れておいたアイディア、今使えるかも!」と組み合わせていく。創作活動は全部一貫して、同じ方法でやっているよ。
3年間で1500万円分の酒を飲む
ーー変幻自在までの下積みエピソードもっと欲しいです!
あとは、2006年から2009年まで、年間500万円、3年間で1500万円分お酒を飲み歩いていたことかな(笑)。お酒探求のルーツは、メキシコのホテルのバーね。
その期間は本当にいろんなバーに通っていたんだけど、銀座のあるバーのバーテンダーに協力してもらって、オリジナルカクテル作りを一緒にやってもらったの。毎回俺がテーマを持って行って、カクテルを作ってもらうのね。
例えば「今日は”中田英寿”というテーマのカクテルを作ってください!」とかね(笑)。他にも「弥勒菩薩」とか「ソニー」っていうタイトルのカクテルもできたなあ。
ーーもはや哲学…?
もう狂気の沙汰だよ(笑)。合計200種類くらい作ってもらって、失敗作も含めて全部俺がお金払っていたし!1晩で30杯以上飲んで、6万円払ったのを今でも覚えている(笑)。でもそれが今にすごく生きている。
カクテルって、基本的にはベースとリキュールとジュースの組み合わせなんだけど、そのバランスが当時の鍛錬のおかげで体に染み付いた。膨大な組み合わせのデータベースが脳内にあるから、「こういう味が作りたいなら、こんな塩梅かな」という感覚がわかるようになってきたんだよね。
だから今「私のイメージでカクテル作って!」とリクエストされても、作れるわけです。
自分ならどう崩すか
ーーお酒の探求は、バーの立ち上げを視野に入れてやっていた面もあるんでしょうか?
途中からは、考え始めていたな。バーって結構格式高いところが多いじゃない?カチッとしたスーツ着て、ずっと立ちっぱなしで、とか。そんな店は俺は絶対経営できないから、俺が店やるなら「どういう風にこの格式を崩していけるかな」と、考えてはいた。
でも変幻自在が立ち上がるまでには、まだ少し紆余曲折があって、最初は寿司職人の友人と一緒に店を作ったのが、お店を持った初めての経験。彼はまさに常識に囚われない天才で、食を通して世の中を変革してしまえるんじゃないかと思うほどのすごい人。
築地市場は介さずに自ら地方をまわって食材を仕入れたり、生アナゴやマンボウの寿司のような創意工夫を凝らした寿司を握っていて。一緒に始めたのは、彼の生き方や寿司の本質について学びたいと思ったこともあったな。ただ最終的には別々に店をやることになって、それが変幻自在の始まり。
※第2回に続きます。変幻自在の目指す世界や、史樹さんの幸福の哲学などに迫ります。
略歴:港区芝公園にて「変幻自在」という名のバーを経営。世界各国のお酒だけでなく、美味しいご飯も提供する。計6年間米国に居住し5ヶ国語を操る。昼間は英会話レッスンの講師や通訳・翻訳家を務め、舞台の脚本・演出も手掛ける。元ソニーマンでメキシコでVAIO立ち上げの経験あり。ワインを巡る人生の物語「命のしずく」の著者。
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